”河合邸” o・mo・ya東洞院とセカンドハウス東洞院店の町家について

 

築造は明治38年。 町内にたった1軒残った元呉服商 "河合邸"

かつては当たり前の存在であった京町家も、第二次世界大戦や戦後の開発により、次々と姿を消しました。今 町内に現存する町家は、たった1軒、この河合邸のみとなっています。

近年の町家ブームにより、新しく建てられた“町家風”の店は増えました。しかしここは観光用に作られたものではなく、人の暮らしがあり、100年受け継がれた“本物の町家”です。

その存在感、魅力、そして「京都に住まう」という事にぜひ触れてください。

(※)昭和初期にファザード部分を改装


Our building "KYO-MACHIYA":a traditional house style in Kyoto was built in 1905.
The interesting aspect in the unique structure of the building that is separated residence area and shop erea by a courtyard along the alley.
This isn't the building which somebody recent made for sightseeing. This is genuine.
We hope you can feel a moment of the living in Kyoto here.




造りについて


見所は京都の商家ならではの造りである「住まいと店舗部分を中庭で分離させた建築」

この建物の表(店舗部分)をセカンドハウス東洞院店として、奥の住居部分をo・mo・ya東洞院として再生しています。

町家のイメージとしては定番の格子窓から、大変貴重な浅黄壁の座敷など随所にその造りを見ることができます。

 

写真1:東洞院通沿いに見られる格子窓の奥では、パティシエがケーキ作りに励む。

写真2:大きく残した天井の梁(セカンドハウス東洞院店(2F))

写真3:大変貴重な浅黄壁(o・mo・ya東洞院)。これが残る京町家は、既に京都市内に3箇所程度のみ。

 


戦争を生き残った町家

東洞院通といえばかつては天皇行幸の通りであり、京都のメインストリートでした。当然賑わい、周囲に多くの京町家が建っていました。

しかし第二次世界大戦中の1944年、本土空襲の被害を少なくするための政策として一画の町家は強制的に取り壊されます。その中唯一残ったのが、この河合邸でした。

 

 

町家の選択と再生への想い

戦争を生き残ったものの、戦後の復興や目覚しい開発という”時代の流れにも取り残される”。

町家が抱える課題に対して「この商家が本来持っていた機能と活力を取り戻す」ための努力が京町家再生研究会によって行われており、その中で出会ったのがセカンドハウスのオーナーでした。

河合邸では家主が改装工事の直前まで生活を営んでいましたが、ぜひここでレストランをオープンしたいというオーナーの想いが伝わり、飲食店として再生することを決意します。



阪神大震災の経験を活かし、
平成9年 セカンドハウス東洞院店がオープン

(画像:読売新聞(平成18年))

建物調査から開店まで京町家研究会・学者・技術者など本当に多くの人が携わって、改装や耐震工事が行われました。

そして平成9年、表の店舗部分をセカンドハウス東洞院店としてオープン。平成12年には母屋部分がo・mo・ya東洞院として生まれ変わりました。

 

再生計画の進行時期は阪神大震災の前後であり、世間一般にはまだ住宅の耐震対策は希薄でした。しかしそのような時期でありながら、「人に貸す以上いい加減なものではなく構造の安全性に不安のない状態で貸したい」という家主の意思により、町家の構造を崩さずに可能な限りの補強が行われました。